厄除開運・八方除の妙見様の御本宮

千葉神社

妙見本宮千葉神社

神事

神事

例祭の起源

御本霊の御遷座

千葉妙見大縁起絵巻に残る妙見様のお姿
千葉妙見大縁起絵巻に残る妙見様のお姿

そもそも例祭の起源は、大治元年(1126年)に遡ります。平安時代の末期であるこの頃、千葉の一帯を統治していたのは「千葉」の姓を名乗る千葉氏でした。当時の千葉氏の惣領である七代目千葉常重(つねしげ)公は、その時までは領地の拡大に伴って移動していた一族の本拠地を、一つの所に定めて永住することに決めます。

当時の江戸は湿地帯の広がる不便な土地であり、街道の整備もされていません。京都と関東を結ぶ東海道も、鎌倉近辺からは船を使っての海路となり、千葉近辺で上陸して香取・鹿島へと続いていました。そこで常重公は、交通の要であった千葉の地の中の、防衛に適した亥鼻山を一族の本拠地に定める事にしました。

本拠地を亥鼻山に定めたこの時まで、一族の守護神としてお祀りしてきた妙見様の御本霊(=御神体、本体)は、一族の本拠地の館にお祀りされていました。ゆえに一族の移動とともに、各地を転々としていました。常重公たち千葉氏は、亥鼻山に永住することを決めたことを良い節目ととらえ、御本霊を然るべき場所にお遷し、落ち着いて鎮まっていただこうと考えました。

当時、亥鼻城の北にあった北斗山金剛授寺(現・千葉神社)は、西暦1000年より以前から千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)がお祀りされていました。長保二年(1000年)には、一条天皇から寺号(お寺の名前)を頂き、伽藍(施設)も整備された祈願寺(=墓地を持たず葬式事を行わず、願掛けを専門とする寺院)でありました。常重公たち千葉氏は、この場所こそ御本霊をお遷しするのに相応しい場所と考え、大治元年(1126年)、御本霊を北斗山金剛授寺へと御遷座(=神様のお引っ越し)しました。

例祭のはじまり

当時の様子

この大治元年(1126年)まで、常重公たち千葉氏は本家の館の中に妙見様の御本霊をお祀りし、すぐそばで直接御加護をいただいてきました。ゆえに常重公たち千葉氏にとって、守護神・軍神である妙見様が離れた場所(亥鼻城と北斗山金剛授寺の距離は約1km)にお祀りされるということは、大変不安に感じられることでした。

この為「せめて一年に一度だけでも、妙見様の御分霊を亥鼻山のそばへとお招きして、その御加護を直接いただきたい」との考えから、御遷座の翌年・大治2年(1127年)旧暦7月16日から22日にかけ、第1回の妙見大祭が執り行われることになりました。

例祭は当初、妙見様の御分霊(=分身)を鳳輦(ほうれん・右図参照)と呼ばれる小さな輿に遷し、少人数の担ぎ手によりゆっくり静々と担いで渡御するという現代と異なる形式でした。

BACKTOP