厄除開運・八方除の妙見様の御本宮

千葉神社

妙見本宮千葉神社

神事

神事

例祭の歴史

例祭と町の発展

お祭りは当初、千葉氏の一族と家臣団だけのお祭りであり、妙見様の御分霊を鳳輦(ほうれん・右図参照)という小さな輿に遷し、少人数の担ぎ手によりゆっくり静々と担いで渡御するという形式でした。しかし千葉の町が発展していくと共に、お祭りにも変化が生じていきます。

千葉の町は、千葉家七代目・千葉常重公が亥鼻山に本拠地を定めた大治元年(1126年)を開府(かいふ=町の始まり)の年としています。以後は亥鼻城と北斗山金剛授寺を結ぶ道を町の中心として、千葉氏の家臣団や農民・町民が道の東西に町を拡大していきます。

町の発展とともに、農民や町民からも「自分達の願いも妙見さまに願掛けしたい」「自分達の住む町内にも妙見さまに立ち寄って欲しい」と要望が増えていきます。神様への奉納として地主・商店主・各町内から農作物や山車を彩る飾りなど様々な奉納が集まるようになり、行列も徐々に賑やかになります。

大きなものでは下図にあるような舟形の山車が絵巻に残っています。開始年代は不詳ですが、まず先に千葉舟(別名:男舟)が行列に加わり、後の天福元年(1233年)になって結城舟(別名:女舟、寒川舟)が行列に加わります。舟に地名が入っているのは、それぞれの町・村からの奉納で作製・運営されていたからです。

舟形の山車
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「江戸町人文化の影響」

江戸町人文化の影響

江戸時代(1600~1868年)になると、江戸で発展した町人文化の影響により例祭の形式に大きな変化が生じます。
当初、少人数の担ぎ手がゆっくり静々と担いで渡御していた鳳輦から、大きなお神輿を大勢の氏子が担ぐという形式に変化していきます。多くの人が直接神様の乗り物に触れて「直に御力を頂きたい」という気持ちの表れかもしれません。

江戸でのお神輿の担ぎ方は、終始肩に担いで氏子区域を巡るのみに限られますが、千葉の担ぎ方は独特の特徴があり、いつの頃からかこの担ぎ方が始まって現代にまで継承されています。

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「担ぎ手の変遷(当初~江戸後期)」

担ぎ手の変遷(当初~江戸後期)

お神輿の担ぎ手は、古くから北斗山金剛授寺の門前百姓であった4つの家(二つの和田家・大塚家・小川家)の者だけに限られていました。

時代と共に鳳輦からお神輿へと変化するに従って、担ぎ手は門前(もんぜん)に住む住民全部に許されるようになります。門前とは文字通り、北斗山金剛授寺の領地内・山門付近などに住む氏子をさす言葉であり、現在の町名でいう院内・要・栄・祐光の一帯全てを指す言葉です。(神社から現在の高品交差点あたりまで一帯全てが田んぼで、全て神社の所有地でした)

さらに時代を経て江戸時代後期になると、担ぎ手は門前・辺田村・貝塚村の三者に分類され、それぞれに役割が定められるようになります。
門前の氏子達は、宮出し・宮入りの際に社殿内でのみお神輿を担ぐ役を担い、境内から先の道中全てでのお神輿の警護を務めていました。一方で辺田村・貝塚村の氏子達は、境内から先の道中のお神輿を全て担ぐ役を担い、16日・22日を毎年交互に担いでいたそうです。
(例:ある年は16日が辺田村・22日が貝塚村、翌年はその逆)
渡御の途中でお神輿を地面に着けることは大変な恥とされ、その時点で警護している門前の氏子にお神輿を取り上げられ、両村の氏子は担げなくなっていたそうです。

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「江戸期の神輿渡御順路」

江戸期の神輿渡御順路

江戸時代後期の神輿渡御順路は
16日 宮出し → 香取神社 → 吾妻町(通称:裏町) → お不動様 → 市場町 → 御仮屋
22日 御仮屋 → 市場町 → 本町(通称:表町) → 香取神社 → 宮入り
と大雑把な順路の記録しか残っていません。

千葉の町自体が亥鼻の御城と北斗山金剛授寺との間を中心にして出来上がった町ですので、この2か所を南北に結ぶ二つの通りを中心に家々が建ち並んでいたそうです。
表通りと呼ばれる本町通り(=拡幅前の国道126号線)と、その西側・裏通りと呼ばれる吾妻町通り(=現在の通町公園~中央4丁目交差点~光明寺(お不動様)~吾妻橋)の二つの道がそれに当たります。
当時を記した『千学集抜粋』には、「表八千軒・裏八千軒」との記述もあり、数多くの家屋が建ち並ぶ様子が推察されます。

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「明治2年 神仏分離令」

明治2年 神仏分離令

明治2年(1869年)、明治新政府より神仏分離令が全国の社寺に発せられました。この神仏分離令とは、要約すると『曖昧な神社と寺院の区別をはっきりしなさい』というものです。

妙見様は、神様・仏様のどちらもの性格を併せ持った尊い存在ですので、一概に神社であるか寺院であるか簡単には判断できませんでした。しかし神社の最も大きなお祭りである夏の例大祭が、この時点で700年以上続いていたこと。その例大祭がお神輿を中心とした神社的な要素の強いお祭りであったこと。この2点を当時は重要と考えたことから、神社という形式を選ぶことになりました。
千葉の一族の守護神、また千葉の街の守り神であったことから、その名前を「北斗山金剛授寺」から「千葉神社」へと改めました。妙見様をお祀りする形式は寺院から神社へと変わりましたが、長年続く例祭の形式はそのまま古儀を踏襲し、大きな変更はなされませんでした。

右写真は当社に唯一残る明治初期の写真です。寺院の様式の建物をそそまま用いた大きな社殿を中心に、向かって右奥に招魂社(現・千葉県護國神社の前身)の屋根、向かって左手前に社務所が見えます。
子供が座っている社務所の玄関には、両脇の柱に「千葉縣神職監督本部」「縣神職監督部第八支部」「神宮大麻暦頒布事務所」の看板が見られ、県内神社の取り纏めも担っていたようです。

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「明治中期 渡御順路の拡大と年番制の導入」

明治中期 渡御順路の拡大と年番制の導入

明治時代に入ると、今までお神輿の渡御のなかった町会から、様々な奉納(お神輿の飾り紐や奉納金など)とともにお神輿の渡御を請う請願が集まるようになり、これを受けて渡御の順路は徐々に拡大されます。
明確な記録の残る昭和14年の神輿渡御順路は

16日 神社・宮出し → 香取神社 → 道場南 → 辺田 → 道場北 → 東院内 → 通町 → 富士見 → 新町 → 吾妻(現・中央) → お不動様 → 市場町 → 御仮屋

22日 御仮屋 → 県庁 → 亥鼻 → 亀岡 → 矢作 → 旭 → 亀井 → 本町 → 院内 → 要 → 栄町 → 通町 → 院内 → 香取神社 → 神社・宮入り

と当初よりも大幅に拡大されています。

明治時代中期になると、渡御順路の拡大に伴い、お神輿の担ぎ手も「年番制(ねんばんせい)」へと変わります。
年番制とは、「年番」と呼ばれるその年の当番の町の氏子が、お神輿や太鼓などそれぞれの管理・運営を行う制度です。

宮出し・宮入りの際に社殿内で担ぐのは院内の氏子というのは変わりませんが、渡御の道中は全て神輿年番の町の氏子が担ぐ事になりました。管理・運営のみならず、何かか壊れた際の修繕費用も年番町会が出すことになります。この為、院内と年番町会とでお神輿の担ぎ手が変わる引き渡しの際には、「神輿改め」と呼ばれる点検が行われて修繕の責任を明確にしていました。明治36年より、院内も年番に加わる事になりました。

町内を巡る大きな太鼓は、その真ん中を叩き破る事が名誉な事だとされていたので、各町の力自慢が太鼓に列を成していました。修繕費用を受け持つ太鼓年番の町会は、持ち寄られる太鼓のバチを点検し、万が一に備えて修理費用を事前に積み立てていたそうです。

下の写真は昭和4年の太鼓年番だった西院内区(現在の栄町・要町)の子供たちの山門前での集合写真です。この写真だけで子供が100人ぐらい写っています。
年番に当たる年には皆で揃いの半纏・浴衣を新調し、多くの奉納が納められました。写真左側に写っている山車の上にはには「西院内区」の額が見られ、山車の上には人形飾りが見受けられます。このような山車が区や町ごとに維持管理されていたとのことですので、お祭りの行列はかなり賑やかなものだったようです。

太鼓年番の子供たち
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「戦争とお祭り」

戦争とお祭り

いわゆる第二次世界大戦の激化とともに、お祭りにも様々な制限が掛けられます。基本的な祭典(=儀式)は変わりませんがが、特にお神輿と行列については徐々に規制が厳しくなっていきます。

昭和16年 例年通り
昭和17年 町内神輿渡御中止の命令が下る
お神輿も町内は巡らず、社殿と境内に臨時に設けた御仮屋との間を行き来するに留める
昭和18年 社殿自体を御仮屋とする
お神輿に御分霊をお遷しし、社殿内でのみお神輿をもむ
(この年、境内にあった招魂社(現・千葉県護國神社の前身)を亥鼻山に遷す)
昭和19年 招魂社跡(建物のみ残っている)を御仮屋とする
お神輿は社殿を出てすぐ招魂社跡へ

いくら戦争が激化しても、何百年と続いたお祭りを途絶えさせるわけにはいきません。毎年必ず祭典を行い、お神輿を担ぐ時間・距離がどれほど短くなったとしても許される限りお神輿を出していました。

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「昭和20年 七夕の日」

昭和20年 七夕の日

昭和20年7月7日、七夕の日の早朝。
千葉の街は空襲にあい、街の中心部分は戦火に見舞われます(通称:七夕空襲)。

千葉神社でも、本殿・社殿・神楽殿・招魂社跡・山門・社務所・額堂など、ほとんどの木造建築が壮麗な彫刻と共に失われ、お神輿・太鼓も灰になってしまいます。現存する手水舎の屋根が、木造の建築物で唯一焼失を免れることができました。

当時の松井真澄宮司(第43世宮司)は、この空襲に際してなんとか本殿から御神体の納められた箱を運び出し、本殿脇のイチョウの樹の下に近隣の人達と身を寄せ合い、すぐ脇の井戸水をかぶって命からがら生き延びたそうです。
空襲後、松井宮司は資材をかき集め、すぐに仮のお社を建てて御神体を安置してお祀りしました。

空襲の翌月の8月15日、玉音放送を以て日本は終戦を迎えます。空襲から間もなく、食料も人手も資材も不足する中、終戦の翌日8月16日には例年通りお祭りの祭典を行いました。
当時は、小さな箱で仮に作ったお神輿に妙見様の御分霊をお遷しし、市場町の御仮屋(御仮屋は戦火を免れて燃えずに残った)へと渡御を行いました。

このように昭和20年の819回目の例大祭は、無事執り行われました。
「戦争に負けようが、社殿が無かろうが、お神輿が無かろうが、お祭りは例年通り続けるものだ」というのが当時の人々の気持ちだったのです。今でも、当時を知る人は誇らしげにそれを教えてくれます。

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「神社とお祭りの復興」

神社とお祭りの復興

終戦の翌年・昭和21年より、空襲を逃れて燃え残った小さな町内神輿を持ち寄っての「連合渡御」を復活させました。
氏子の方々から多くの浄財を募り、また神社としても多額の借財をして、昭和24年にお神輿を新調し、昭和29年には社殿・社務所をようやく再建することができました。

右図は昭和29年、社殿が再建されて初めてのお祭りの様子です。空襲で家々も焼けた為に周囲に高い建物は見えず、新しく大きな社殿と空襲の時に松井宮司が身を寄せた大きなイチョウの木がその傍に目立って見えます。

昭和24年のお神輿新調の年より、主に経済的な理由から町ごとの「年番制」は廃止され「連合制」になります。空襲によって家族・家屋・財産を失った方々が多く、お祭りの費用を一部の町会だけで賄うのは難しくなってしまったのです。
従来の年番制においては、神輿年番・太鼓年番など一部の町会が管理・運営・修繕を担当してお金と人を手配していましたが、新たな連合制おいては全町会で分担・出資してお祭り全ての管理・運営・修繕を担うことになりました。

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「都市化と担ぎ手の減少」

都市化と担ぎ手の減少

昭和40年頃になると都市化の影響からか町内に住む担ぎ手の氏子が減少し、お神輿の渡御を終日行う事が難しくなってしまいます。
苦肉の策としてトラックにお神輿を乗せて移動し、主要な場所でのみトラックからお神輿を下して担いだお神輿をもんでいたそうです。

この折、氏子崇敬者有志の中で「お祭り・お神輿のにぎわいを取り戻そう」と結成されたのが「千葉神社 祭禮保存会」です。昭和48年の会発足より現在まで、氏子町会と連携してお祭り・お神輿を支える一翼を担っています。現在でも、氏子町会と祭禮保存会が両輪となってお祭りを盛りたてていますが、担ぎ手不足という課題は永遠のテーマとなっています。

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